ブログ風といいながら,昔話になってしまったついでに, ASg実験で北京に滞在しても経験することは 難しそうな体験について書いておこう.
1984年の春節時に高能研に滞在したおり, 高能研に滞在する外国人の専門家ということで, 政府主催の春節パーティーに招待された. 一番寒い季節なのでおそらく我々の他に滞在している 外国人はいなかったのであろう.たまたま運がよかったと いうことだと思う.場所は 人民大会堂の大ホールで2000人規模の晩餐会を 経験するという稀な機会に恵まれたのである. (ニクソン クラスのときは倍以上詰め込むそうである).

人民大会堂というのを見学する便宜が あるのかどうかはしらないが(* 日本の国会議事堂はあるらしいが,見学したことはない), まあ,普通の「人民」にはほぼ無縁の代物であろう.国会議事堂も まあそんな所だが...
(*)今回調べたら, 使用中でない時期には,一部の部屋は見学できる,とあった. 大ホールはどうか分からない.
そんな大会堂の中に入れるというので,地下鉄で西単から1駅とかだから, アメちゃん(雨森氏)と喜び勇んで訪れた, 天安門西駅から歩いて行くと,会場に向かって歩いて行く人は 誰もいない.気が付くと, 皆黒塗りのハイヤーでカッコよく乗り付けているではないか. どうやら歩きで来たのは我々だけだったようである. N先生が何かの表彰式か,祝賀会で皇居に招かれた時, 「皆な黒塗りのハイヤーで乗り付けていたが, 普通のタクシーで来たのは俺だけだった」, という話を思い出した. 写真は大会堂入り口で: こんな格好の参加者は他には いなかってであろう.アルバムには, 耳あてはヒットだったと書いてあった.
大ホールの会場
式辞は姚依林という副首相が出てきて行なっていた. (その時,英語の通訳が あったかどうか? なにを喋ったかなどの記憶はない.また, 当日は彼が副首相だとも知らなかった. 2日後に,英語ニュースをみていて,知った.今回 Wikipediaを見たら,鄧小平の路線とは一線を画す 右派の大物で,中曽根首相と会った際に,はじめて 靖国参拝を批判した,そうである). 今,式辞を眺めると,2節目あたりには 胡耀邦が日本を訪問,趙紫陽がアメリカとカナダを 訪問,熱烈歓迎と歓待をうけた,我々は深く感謝,のような 文言が見える.
(*)当時の党政権中枢
鄧小平:
党中央軍事委員会主席. 実質的最高権力者. 1976年,
江青ら4人組による第一次天安門事件で失脚させられる,
など数度の失脚,復活
を経て,改革開放路線を掲げて権力を握った.
式辞を見ると加拿大はカナダのことらしい.拿はどう発音するのか
字も知らないし,発音も分からない.加は ka,大は da とかなら拿は
na に近い音で,kanada と辻褄はあう.ところが,実際の発音は
「Jia Na Da]ようで,ka にあたるのは
のようである.どう聞いても ka とは違う.それなのになぜ日本語で ka と
発音されCanadaのCaに通じる加の字が当てられているのだろうか.
参考ぺーじ
を見ても分からない(*).
参加者の中には,日中国交回復後の
科学分野での交流再開に先陣をきって代表として来日し,
当時小生もいた原子核研究所を
訪れたことのある張文裕もいた.かれは高能研の初代所長であるが,
この時はすでに相当の老齢で,車椅子を若い女性が押している状態で
あった.
春節パーティーの写真のスライドショー
(写真最下部に青帯が見えない=>再クリック).
(*) 2017/10/05: 追記.加の発音が ka と随分違うのは 呉音,唐音,漢音などの違いが原因かと思ったが, カナダはそんな昔にはなかったので直接の原因では ないだろう.すると, 外国カナダと関係がまずできた沿岸部の 地方による発音の違いであろうか.暇ができたときに ネットを漁ってみたがラチが明かない.が漁っているうちに その辺を調べるの適したページ 中国語方言のページ に出くわした.これによると,どうやら ka に近い発音は台湾 のものだと判明した.ただ,昔から台湾に今の発音をする 中国人がいたわけではないだろうから,呉音...などの 発音の影響を受けた地方の人のものかもしれない.日本で の音が ka なのもその辺りが遠因だろうか.
式辞の紙には1984年1月31日と書いてある.この日が元旦 に当たるのかどうかは分からないが(次項の北京飯店の話を 書くときに2月1日が大晦日だとわかった),年によて数日は ズレるとは思っていたが,毎年この頃が 春節であるのは間違いないと,ながらく思い込んでいた. しかし,2,3週間は平気でズレるようなのでいささかビックリ. 旧暦で決まっているものが,西暦では2,3週間もズレるという 知識はなかった.
昔話のさらについでに,昔の写真アルバムを見て
びっくりしたことを書いておこう.1984年のころは
多少西洋ぽい品物などは北京飯店あたりまで
出かけないとなかった.アメちゃんとは結構何回も
北京飯店まで出かけ,食事などをしたことを
覚えている.大晦日にも出かけて,
ショー付き特別ディナーを張り込んだ.今なら
おそらく200元やそこらはとられそうだが,
アルバムには20元と書いてあった(ショー代が別に3元).これは
今なら,ちょっと張り込んだ昼飯程度の
値段である.当時高能研の昼飯が3元で
たくさんありすぎ,食べきれないと
書いたが,それと比べても安いので
ビックリである.
北京飯店で大晦日
(写真最下部に青帯が見えない=>再クリック).
昔話ついでに:
この5年後の1989年に ASg の羊八井建設に向かうのであるが,
第二次天安門事件が6月に発生,チベットでも動乱が起きた.
チベット行きはそのため数ヶ月遅れて11月になったのであるが,
今思えば,そのような状況でチベットへ行けたことは
まったく奇跡的であったと言えよう.
天安門の石畳には戦車の爪痕が
生々しく残り,ラサには戦車(といってもキャタピラのではない)がまだ走っていた.
見つかったら大変と思いながら,戦車も隠し撮りした当時のラサ
動画中程はラサから羊八井へ向かう途中で見た五体投地をしながら
ラサに向かう人々.
現地で車を運転して我々日本人を運んでくれたチベット人は
猟銃を持っていたが,軍に見つかるとヤバイといって
床下に隠していた.
前編の殷君の項でものべたが, 科学目的で当時チベットに行けて現在は行けない というのは,まったくももって中国人にとっても ビックリの事態のようである.

1989年.建設開始の羊八井にかかる虹で祝福される最初の遠征隊.
右から梶野,大西,日比野,斎藤,2人(*)おいて,小生.
(*) 女性はチベット大学英文科の学生.
チベット語↔英語の
通訳をしてくれた模様.男性もチベット人.
(ASgのメンバー?)ヌーさんと呼んでいたとアルバムには
書いてあった.
さらについでに,昔々作った
研究室紹介の学生向けWeb pageのチベット実験の紹介
の部分
(中身は1989年のものが大半であるが,その後の実験
結果にも触れている.1995年は阪神大震災の年.日本の大学の大半には
まだhome pageはなく,宇宙線研にもなかった頃である.
上記では宇宙線研や高能研(*)へのweb pageへのリンクがあるので
2000年前後の頃のものであろうか: (*)高能研へのリンクは
現在のものに更新してある).