初回の雑記では譚さんとの再会の話は書いた. 譚さんと出会ったのは ASg棟の近くの路上でたまたまであった. 丁(Ding)さんは故郷の昆明に,任(Ren)さんも故郷の大連の近くに いると思っていたが, 丁(Ding)さんも譚さんと同じ ASg 棟のすぐ近くの28号楼にいるという.しかし, 連絡をどうすればいいのかがわからず,会えないでいた.
7月半ばに,本館の一室で書道の展覧会があり,そこに譚さん達が 出展してるだろうという話を学生さんがしてくれたので,見に行ってみた, どうも高能研OBなどでつくる書道や絵画の同好会があり,月に何回か 集まるなどして研鑽をつんだ結果を展示する会のようである.
探してみると,譚さんと丁さんの書がそれぞれ2点ほど展示してあった.
写真に収める.丁さん(右)と譚さん(左)の作品.
丁さんの昔のメールアドレスを探し出し,それをダメ元で添付して送ってみた. 数日しても返事がない.非存在のアドレスではなさそうなので,添付ファイルの 容量大などで,ジャンクメール扱いで埋もれてしまったのか? 今度は 添付なしでメールしてみる.するとしばらくして丁さんから返事が来た. 「すまんすまん,このごろは,1週間に1度もメールを開かないこともある.友達との やり取りは,普通Weixin(Lineのようなもの?)を使っている」とのことであった. ともかく連絡がとれたので,まずはというので,ASgの部屋に来てもらう ことにした.
昔話をいろいろしたが,なぜ昆明に帰っていないかは,向こうは標高が 高く,そのため,かなりしんどいので帰らないことにしたそうである. 数年前に”めまい”のような症状に襲われ,治るのに何時間も要した ことがある,なども心配のタネのようである.また,奥さんの 容態が良かったり悪かったりで,悪い時は一人で置いておくことも できない,このところ,毎朝病院に連れて行くなどの手当が 必要とのことであった. そのためどこかで夕食などをと思ったが,奥さんの容態が良くなった またの機会にということにした.
丁さんも書道には入れ込んでいるようで,女房も書道にはまっていることを 知って,かなりの長文の自筆の書をプレゼントしてくれた. 女房はこちらに来て,邪魔なしで書道に打ち込めるとか言って アパートで書き三昧していたのがあるので,それと交換という ことになった.丁さんの話では,予想外なことに任さんも同じ 28号楼にいるとのことであった.あとで黄さんから,任さんは 奥さんがなくなってから,失意で,引きこもり気味になり, 連絡なども取れないが,最近「新しい彼女」ができて元気に 一緒の歩いているのを見た,というような話を聞いた.7月は もう時間がないので,任さんと会うのは9月に来た時にトライして みることにした.
そして,9月15日高能研に到着して,黄さんからまず聞いたのは 霍安祥さん(朋友というには先達すぎるが)が亡くなったということだった.黄さんには丁さんから 連絡があったそうだ.亡くなったたのは2,3週間前で葬儀などは終わっている とのことであった. その直後,西村先生から受け取ったメールでは霍さん逝去のことが書いてあり,弔文を 送ったとのことである.こちらは霍さんが28号楼に住んでいたのかどうかも分か らないのに, 中国では宇宙線の大先達とし て人望の厚い西村先生には別系統の電網があるようである.
霍さん逝去の件はASgのメーリングリストに流しておいた.
黄さんは来週にでも丁さんと夕食など一緒にしましょうという.任さんとも なんとか連絡をとって,一緒にということに.黄さんは中国に帰ってから 任さんとは直接会ったことは一度もなく,電話で一度だか話しただけとの ことであるが電話番号ももう分からないとか.
女房と娘が15年ほど前に 二人で北京を訪れた折,任さんには大変お世話になり,そのときの 連絡用に任さんの電話番号は女房が控えてあった.しかし, 28号楼は12年前にできたので,15年前は任さんは別の所に いたはずだがから,その電話番号はもう使えないだろうと.
翌日土曜日にダメ元でその15年前の番号に電話してみた. 間違い電話だったら,sorryの一言くらい中国語で 言えないといけないので,それくらいならどうにかなる女房に 電話させた.すると奇跡的に電話に出たのは任さんだったのである. 任さんも日本語でのやりとりは全くの久方ぶりなので,意思疎通は なかなか大変だったが,ともかくASgの建物と28号楼は間近 だから,ASgの研究室で今すぐ会おうということにして アパートから研究室に急いだ.
ASg棟の前で28号楼から出てくるであろう任さんを待つも,一向に それらしい人は来ない.再度電話するも, 「ただいま留守, 伝言は,ピーのあとに」 (想像)のような中国語が聞こえるのみ. そのうちに,本館のほうから任さんの風貌に似た人が 颯爽と自転車を漕いで28号楼に向かって行った. 女房の話では15年前に会った時は杖を付いていた ということなので,似てはいるが,まさか任さんとは思わず, 声を掛けなかった.さらに待つこと10分とか, 今度は28号楼の方から,先ほどの任さん似の人と同一 と思われる人が歩いて来た.杖などはついていず颯爽と 歩いて来る.でも,どう見ても任さんらしい. 今度は声をかけてみる.やはり任さんだった. やあやあー.ということで,研究室で話し込んだ.
任さんは現在のASgの部屋は全く知らなかったそうで, 黄さんが引っ越して来る前の本館の部屋を想像したそうである. そこで本館に行った.本館は普段は入り口に守衛がいるが, 出入りは自由である.しかし,土日はドアが閉まり,専用 のキーがないと出入り不可能.小生も以前そうとは知らず 中に入って(入る時は前に入った人のすぐ後だったので キーなしで入れた)出るに出られず,キーを持った人が 出るのを待って飛び出たことがある.そこで任さは 自宅に戻り,丁さんに電話してASgの部屋を聞き出し,やってきた のだそうだ.
任さんは数年前に奥さんのLuさんを亡くした頃に,下唇の あたりを 手術したそうである.もう4年に なるそうだ.その結果,唇から下は証明書の写真とは別人のようになり, 怪しまれることもあるとか.我々からみると全く昔とは 変わらないが,ここが切った跡だと言われると, 手術痕のようなものもかすかに見える. 手術した頃は奥さんのこともあり, 一時期ひどく落ち込んだそうであるが, 現在は杖もつかず,カクシャクとしている.
現在28号楼の真ん中の区割り(以下で言う三単元) の11階に住んでいるそうである. ここ北京の(北京以外も?) アパート・マンションの類は,階の他,縦方向にも 分割されているのが普通のようで,その分割は階段とかエレーベタ に付随して両側に2世帯,あるいは構造によっては3,4世帯が 入るように区割りがなされている.各区割りを単元といって,三単元の 11階とかいうわけである.単元が異なると,たとえ同じ階でも 1階まで降りて別単元の入り口から登らないと 行けない仕組みである.つまり,見かけは1つのビルでも,別の 縦長のビルを引っ付けたのと同じ トポロジーである. したがって,階段やエレベータは建物1つに1つとか2つとかでは すまずに,単元の数だけ必要になる. 良いシステムなのか悪いのか? 小生のアパートは6階建であるが,単元は7あり,階段も それだけあることになる.同じ数だけエレベータを付けたら 間尺に合わない,というわけだろうか,エレベータはないので 4∼6階の人は大変である.
28号楼は15階建で単元数は5,さすがにエレベータは ある. 高能研は電子加速器があるので,停電は まずないそうであるが,エレべータ自体が故障することはある. その際は隣のエレベータを使うという訳にいかないから, 任さんも11階なのでヒーヒー言ったそうである.
譚さんは西角(5単元)の7階に,丁さは同じく15階に住んでいる.
任さんはLuさん亡き後,最近「新しい彼女」を見つけたそうだ とか前に書いたが,本人は一人住まいだと言っているので, 料理などはどうしてますかと聞いたところ,同じ単元の 7階に住む女性が同じく独り身なってしまったので, 料理は作ってもらって食べるのに不自由はしてないとの ことであった.これが「新しい彼女」の種明かしらしく, 任さんの元気の素のようである.
28号楼は老人が多い.亡くなる人は多くはガンだそうだ. 任さの単元では最近だけで7人がガンで亡くなったとか. 胃ガンが一番多いらしい.
縁起の悪い話になったので話題を変えよう. 任さんが最初に日本に来たのは1976(1979とも聞いたよな気がする) 年だそうだ. おそらく張文裕一行が来たすぐ後の頃だろう. 小生は張文裕の訪日は覚えているが 年代は覚えていない.
因みに,日本の宇宙線関係者が最初に中国を訪れたのは 1957年だそうだ(少し早すぎる気もするが).
任さんは19xx年に来た時は なにそれ,xxxx年の時は 小生の家でなんとかかんとか,こちらには記憶のない ことも克明に説明してくれる.そのころの原子核 研究所(宇宙線研はまだ?)などの話に 及んで,今はもうあそこには建物は何も残っていなくて 公園になっている,と言うと,そのことなら2011年の ICRCの際に村木さんに聞いて全て知っている,とのこと.
2003年に北京を我々が訪れた際は,どこそこの店で アヒルの丸焼き(北京ダック?)を食べ,自分の右手には 太田先生,柴田先生,..真向かいには小生が.. とか克明に記憶している.まるでノイマンが持っていた と言われる イメージメモリの持ち主ではと思うほどである.
さて,今回任さんから聞いたヒストリア的な話は いくつかある.たとえば, どのようにして任さんは日本語を使えるようになったのか. それを聞くと,日本の侵略と傀儡国満州国が 絡んでいることが分かる.任さんの故郷は中国東北部. 満州国の首都は新京(現在は旧名の長春)で,任さんも その辺りの出身らしい.小学校もその辺りで, 1942年頃に小学校1年 とかになったらしい.学校では日本語での教育が行われていた そうである.2年生までその学校にいたが,日本の敗色濃厚 になった1944頃には日本語学校の存続とか,そこへの 通学とかが困難になったらしい.この幼少期の日本語 がその後に日本との関係を深めるきっかけになったようである.
前回の雑記ではラストエンペラー愛新覚羅溥儀の 話がでたが,清朝の最後の皇帝が担ぎ出された 満州国の首都長春であるから,戦後愛新覚羅の 血を引く人が身を窶(やつ)していたとしても 不思議でない. 長春のとあるビルの人物が溥儀の血を引く 人で任さんも色々と繋がりがあったそうである.
もう一つは 「某先生の奥さんの生家」に関するものである. 「奥さんは上海で生まれた,生家の写真 はあるが,探しても見当たらなかった,そこで任さんが ある機会を得て探してみることにした(実際に探しに行ったのは 任さんの長男),すると,ほんの少しだけ形は変わっていたが, 写真と同じ家が実際に見つかった.」某先生が 喜んだのは言うまでもない. 「 後年そこらの家はすべて無くなってしまったが.」 ということであった.